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聖クリストファ幼稚園

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 教派は日本聖公会といいます。
 英国国教会がルーツとなっている教会です。
 昔、イギリスやアメリカから宣教師や修道女たちがやってきて
 教会の基礎を作りました。 
 立教大学や聖路加国際病院が同系列です。
 




2000年4月までの正面風景
当教会の始まりは、クレーン司祭の物語と深く関わりがありますので、その経緯を下に記します。
 

 ロバート・ミルトン・クレーン司祭

 (1916-1952.3.11.)




 米国ロスアンジェルス市ポモナ出身。カリフォルニア州立大学バークレイ校、ニューヨーク
 ジェネラル神学校に学ぶ。1943年米国聖公会ロスアンジェルス教区において、
 スチーブンス主教により司祭に按手される。同年チャプレン(従軍司祭)としてカリフォルニア州兵に
 加わり、第二次世界大戦中、2年間海外で勤務する。帰国後、オンタリオのキリスト教会において
 副牧師、次いで牧師、コンプトンの聖テモテ教会、ロスアンジェルスの諸聖徒教会牧師を歴任、
 この間、1950年3月朝鮮戦争が勃発、同年9月州兵に再招集された時はサンディエゴ諸聖徒
 教会の牧師として信徒から深い敬愛と信頼を受けていた。

 朝鮮戦線に派遣前のある期間、青森県三沢の在日米軍基地内の教会で勤務に服する間、
 しばしば近隣の日本聖公会の教会を訪ねるうちに東北の人と風土を愛するようになり、
 特に東北教区主教、中村信蔵師父及びその家族と親交を結ぶ。当時、伝道上指導者の不足と
 財政の貧困のために教勢の衰退を悩む主教の心情を理解し、軍務終了の後は、日本に残り、
 この教区での宣教に献身しようと決心し、中村主教と何度も話し合った上で、賜暇のかたちで
 在籍しているサンディエゴ諸聖徒教会牧師職を辞任する。このときのことを、中村主教は、
 彼の死後ロスアンジェルス教区主教宛ての書簡の中で、次のように述べている。
 「・・彼は、除隊後は東北の私の教区で働きたいと熱心に希望しておりました。日本に留まり
 東北で働くとの決意には熱烈なものがあり、そのため前任の愛する教会に辞表を提出しました。
 一度は身を捧げたパリッシュと袂を分かつことは大変辛いことだったでしょう。しかし、かれは
 私たちを助けて共に働くという、より難しい使命を選んだのです。私たちは皆彼を愛し、教区に
 迎えることを楽しみにしておりました。…」残念なことに、クレーン司祭は自身がライフワークと
 定めたこの仕事に着手できないまま朝鮮の前線に派遣され、1952年3月11日、その地で主に
 召された。35歳であった。

 砲弾の飛び交う前線で、彼は、軍務に服する兵士たちがチャプレン個人による援助・教導を必要
 としていると確信し、敵前に散開する塹壕陣地(fox ho1e)に聖体を運び、兵たちに短い聖餐式を
 執行するのを日課とした。その日の午後、20名程の若者が守るfox ho1eに行く。彼がジープを降り、
 fox ho1eに入るのを丘の上で朝鮮軍の機動部隊が見て、狙いを定めていた。聖餐式を終えて
 彼がジープに戻ると同時に砲弾が命中し炸裂した。即死であった。

 第40師団160連隊の兵士たちは心からクレーン司祭を愛しており、また彼が日本の人々への宣教に
 関心を抱いていることを知って、給料の中から5,000ドルもの金を集め、クレ一ン司祭と160連隊の
 他の戦死者12名を記念するために、日本の東北地方に礼拝堂を建立するためと指定して献金し、
 これが日本聖公会東北教区に与えられた。

 その頃、東北教区では、教会礼拝において教区内信徒、特に青少年を指導する婦人指導者養成の 
 ための学校を設立する壮大な計画があり、既に設立委員会が発足して各方面に募金を
 要請していた。 この計画は、本校舎、寄宿舎、付属幼稚園、礼拝堂、司祭館を含み、
 そのための土地の取得や建築費として莫大な資金が必要であった。カリフォルニア州兵第40師団 
 160連隊の兵士たちの捧げ物は礼拝堂及び司祭館の建設に当てられることになったが、
 それだけではなお十分ではなかった。ロスアンジェルス教区主教フランシス・エリック・ブロイ師父は
 このことを知り、同教区内にクレーン司祭記念基金を設立すると共に、教区青年会の年次総会に
 おいて、この基金の拡充を計るために特別なプロジェクトとして推進することを提案された。
 これを受けて青年会は15,000ドルの目標を掲げて鋭意キャンペ一ンを開始した。その後、
 多少の曲折を経てこの運動は実り、一連の学校施設の最後に1960年3月31日に完成、
 同年5月5日、仙台基督教会クレ一ン司祭記念聖フランシス聖堂として聖別された。この日、
 東北教区のすみずみから多数の聖職、信徒が集い、盛大な祝福式が行なわれたと記録に
 残されている。

 今、この聖堂を神の家として生きる私たち聖フランシス教会信徒は、計り知ることのできない
 神の愛のみ業に畏れと感謝をもって祈るとともに、建設に携わった人々また援助を与えて
 くださった人々をクレーン司祭の名と共に覚えてこの聖堂を守って行きたいと思う。


                            2000年10月28日  ナタナエル 礒崎 誠 記
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朝 鮮 戦 争について

 1945年日本の敗戦により朝鮮は解放された。朝鮮人全体が喜びに湧き統一国家建設のための活動が盛んに起こった。しかし、政治路線について意見の対立があり、その上、米ソの冷戦のために統一国家の建設は実現せず、1948年北緯38度を境にして南に李承晩を大統領とする大韓民国、北に金日成を首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立し、相対時することとなった。1950年6月25日朝鮮民主主義人民共和国軍(以下北朝鮮軍と呼ぶ)が大韓民国(以下南朝鮮と呼ぶ)に侵攻ソウルを攻略、同年9月までにほとんど朝鮮全土を占領した。国連安保理は、1945年国連発足後初めて国連軍派遣を決議する。国連軍には16か国が軍隊を参加させ、41か国が軍需物資を送った。軍の90%は米軍であった。9月15日国連軍は黄海からソウルに近い仁川に上陸し、1O月24日までには38度線を越えて深く北朝鮮に侵攻した。10月19日には中国人民義勇軍が参戦、中朝国境を越えて反撃、人海戦術をとって有力な国連軍機動部隊を圧倒、51年1月までに38度線をわずかに南下して国連軍と対時した。北側の武器はソビエト連邦が供給した。以後、53年7月27日休戦協定が調印されるまで、膠着状態のまま戦闘は続いた。

 クレーン司祭が戦死したのはこの時期にあたる。この戦争は歴史上稀にみる悲惨な戦いであった。朝鮮の北端から南端までが戦場となった。南朝鮮軍と国連軍は58万、北朝鮮軍、中国軍側は160万人の戦死傷者、行方不明者を出した。南朝鮮では1OO万人の一般人が殺され、数百万人が家を焼かれた。この間日本は米軍の基地となり、軍需による莫大な生産を引き受け、経済は大いに潤った。多くの人々が悲惨を舐める一方、それによって豊かになる人がいる。戦争とはそういうものである。50年を過ぎた現在でも、南北に分断されて生きる朝鮮の人々に平和な統一がもたらされるよう祈るものである。

 教会付属聖クリストファ幼稚園の創立に深く関わりのある  シスター・マリヤの紹介です。 シスター・マリヤ Sister Mariya Margaret



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